七条町は、東町・中町・西町の3町の自治会からなる、東西に細長い町です。かつては「南郷里村」という集落でした。
ここでは、七条町の歴史遺産のいくつかをご紹介します。
【近江井関家とは】
近江井関家とは、近江国坂田郡七条村(滋賀県長浜市七条町)を発祥の地とし、室町末より江戸初期まで能面
を打った家系で、初代上総介親信(かずさのすけ ちかのぶ)、二代次郎左衛門(じろうざえもん)、三代備中?
家久(びっちゅうじょういえひさ)、四代河内大椽家重(かわちだいじょういえしげ)そして弟子 の大宮大和真盛(おおみややまとさねもり)までを言う。
【イセキの能面】
井関の能面は◇イセキと裏に刻まれて、それは「片仮名(かたかな)イセキ」と呼ばれる。家重は父から面打
ちを習い、ついに徳川将軍より『天下一(てんか いち)』の御朱印(ごしゅいん)(=許可証)を受け、
『天下一河内』の焼印を用い、幕府に召され江戸に移る。家重の長男、家正(いえまさ)も能面を打った が父
に及ばず、井関家の伝統は弟子大宮大和が継ぎ、彼も『天下一』の御朱印を受ける。しかし大和を最後に近江
井関家は絶えた。家重の彩色(能面の肌の色付 け)は『河内彩色』と呼ばれ世に名高く、観世流(かんぜりゅう)の女面『若女』を創作し、世に送り出す。
井関家一族の中には、この正統以外にも能面を打つ
者があり、鞍打ち、獅子頭(ししがしら)、鼓打ち(つづみうち)、欄間(らんま)彫刻を手がける彫刻家集団であった。
(能面師・真弓能裕子)
※さらに詳しい情報を収集中です。まとまり次第、アップします。
【田中藤内顕彰碑(田中先生碑)】
江戸末期頃、謡曲の師匠として活躍したと伝えられる田中藤内先生の碑は、氏の死後、門弟らによって建てら
れたものです。碑文を現代文に直してみると、おおよそ以下のような内容が書かれてあります。
『田中先生は通称藤内といい、諱は正胤、句名は松濤館采という。弘化三年(1846)正月にこの地に生まれた。
若い頃しばらく京都の観世流能楽の大家片 山普三の門に学び、よくその音調はすばらしく、ひとたび聞けばだれでも歎賞した。またその人となりは温厚で、その門弟を愛するさまは、母親が赤子を愛する 如くであった。多くの人々がその徳をしたい、その感化をうけた。また和歌俳諧発句、活花なども上手であった。年八〇才をすぎてもかくしゃくとして健康で
あった。もとから深く仏門に帰依し、晩年におよんで髪をそって堯照と名のった。ここに門弟が相談して碑を建てその厚徳を後世につたえようとするものである』 写真はまちづくり委員会が作成した案内版です。
【開新学校】
七条常小学校の校舎は、元「開新学校」の校舎を分けて建築されました。「開新学校」は、七条村・石田村・堀部村・小屋村の四ヶ村の共立でしたが、新村
制実施の結果、石田・堀部・小屋の三村は北郷里村に属し、七条は南郷里村に属することとなったため、学校を分離することになりました。
現在残っている建物は、明治19年9月に元「開新学校」の校舎の一部を分離して建築されたものです。明治20年10月6日に落成され、新築にかかった金額は210円、縦・横2間半の一室と玄関から成り立っていました。
※『学校沿革誌 七条尋常小学校 明治29年4月増補』(南郷里小学校所蔵)より抜粋加筆修正
【2006年改築】
2006年春、老朽化の激しかったこの建物は改築され、「足柄神社社務所」として使われています。
画像の開新学校に使われていた鬼瓦は、現在、南郷里小学校で保管されています
【昭和クラブ跡】
当時の人々にとって随一の娯楽施設であった劇場『昭和クラブ』は、1937(昭和12)
年~1938(昭和13)年にかけて、木造2階建建築として完成、オープンした。南向きであった。観客収容総数200人位で、廻り舞台も備わっていた。芝居だけでなく、トーキー映画もしばしば上映されていたが、戦後まもなく取り壊された。
(長浜市農業文化遺産総合調査より抜粋)
画像は昭和12年5月24日の上棟式
館主 株式会社 昭和倶楽部
施工 戸田安吉 氏
棟梁 萩永茂一 氏
お大師さん
南無西ノ辻地蔵尊
南川郷里地蔵尊
新道地蔵尊
中町満願地蔵尊
北川地蔵尊
南無地蔵尊
南無報徳地蔵尊(愛護地蔵)
大将軍地蔵尊
七条町には「願通寺(がんつうじ)」と「福泉寺(ふくせんじ)」という、二つのお寺があります。
それぞれのお寺の沿革をご紹介します。
【創建】
現存している元禄2(1689)年に書かれた古文書「坂田郡七条村出入付手形之留」によれ ば、時の願通寺道場
主である道順が、「この道場は、自分の三代前の門右衛門にはじまり、いままで160年余を経過している」と記
しており、正確な開基年代 は詳らかではないが、創建の時期は室町時代の末、本願寺がまだ東西に分かれる以前
の大永間(1529年)頃にさかのぼることが判明している。
そして、元禄2年までは、長浜能令院直属の七条村道場として法務にたずさわっていたが、元禄2年7月に西
本願寺に帰参した。
元禄2年9月10日付けの「切死丹御改ニ付指上申手形之事」という公文書には、「西本願寺直参、坂田郡七条村
願通寺 道順」の署名があり、このときから西本願寺の直参寺院であったことが知られる。
【沿革】
元禄2年以降、明治までの状況は詳らかではないが、第三世・道順の後の歴代住職については、釈道寿、釈道教、釈道随、釈見照、釈覚行、釈顕道の名が残っ て
おり、明治初年の文書には釈顕道が第13世住職と記されている。ついで、寺川龍眼が第14世住職となり、明治26年には釈龍眼の長子・寺川湛然が第15 世住職に、さらに
昭和25年には釈湛然の三男・寺川了英が第16世住職に就任した。
ところで、元禄2年以後、七条町には他村の寺院の道場も営まれ、明治初年には戸数約100余戸の町内に無住もふくめて数カ寺の寺院道場があり、いずれもその護持
が困難になっていた。
そこで、しばしば合同についての協議がなされていたが、時の政府の寺院合併の布達を機にようやく合同の機運が熟し、東本願寺所属の諸寺院が合併して現在 の福泉
寺が創建されたが、西本願寺所属の願通寺は町内に同派の寺院がないこともあって、旧態のままに推移することになった。このため、本堂は明治以前にも 改築や補修が
なされたようであるが、境内地は現在に至るまで移転等はなく、創建以来ほぼ470年にわたって現在地に寺基を維持している。
【本堂および文化財】
現在の本堂は、旧本堂の老朽化が著しくなったため、第16世住職寺川了英の発願により昭和 37(1962)年から10余年の歳月をかけて鉄筋コンクリート造りで改築
したものであるが、しかし、旧本堂の内陣は、初期真宗寺院の様式を伝える貴重な 遺請であるところから、ほとんど旧態のまま保持された。
初期の真宗寺院の様式は、内陣は平面的で、本尊や親鸞聖人絵像などが後壁に沿って一直線になっており、本尊が前に出る出仏壇ではなく、柱はすべて角柱で丸柱は
存せず、また内陣と外陣の間も横開きの障子やふすまで仕切られ、巻き障子も用いられていない。
当時の内陣の形態はまさにその通りであって、内陣の配置はいわゆる後門の無い平面配置になっており、内陣と下陣の間は横開きの障子、柱はクサマキ材四方正の
角柱が用いられている。
特に、内陣本殿の横柱二本は長浜曳山の前柱と同じく、黒漆塗りに「波に千鳥」の装飾金具を用いた華麗なもので、秀吉との関連も注目される。
なお、内陣須弥檀や前記クサマキ材の柱には、昭和60年の宮殿荘厳の時に金金具を打っているが、本来は金具装飾のない素朴なものである。
内陣正面の上部を飾る3面の欄間は、幻の名工「イセキ」の手になる彫刻と伝えられる見事な作品である。
本尊・阿弥陀如来立像は、江戸時代初期の作と評価されており、寺伝でが西本願寺阿弥陀堂の本尊と同じ仏師春日の作と伝えられている。
ちなみに、明治32年の公式文書に記載されている門徒数は7戸にすぎないが、歴代住職が布教使として寺門護持にあたったことや、門徒各家の熱心な聞法護 持活動に
加えて、その古い由緒の仏像に結ばれた近隣の東本願寺門徒や仏光寺門徒の宗派を越えた懇念をうけて、念仏弘通の道場として存続してきたことは、ひ とえに仏祖の
加護と報謝するのみである。
(「普照講」二十周年記念事業の一環として発行された冊子『「普照講・珠講」の歩み』から引用)
福泉寺の前身は明治30年代からいくつかの道場や寺院が合併に合併を重ねて寄り合った寺であるが、文献が皆目
存在せず、唯一の資料は初代住職正導師が「秘蔵過去帳附庫裡受納永代経記録」として書き残した冊子のみである。
【合併前の寺院】
<西教寺>
本堂は字西三反田六百五番地にあり、北掛所を改造した。(福泉寺の旧庫裏で昭和53年に新築のために取り壊す)
北掛所は元半平酒店駐車場、南掛所は井関清吉氏(現省吾氏)所有の北隣の畑。南北2道場とも創立月日は不詳、
長浜別院直参。
東谷正導師は元西黒田村薗原(現在小一条町)了源寺第四世住職。明治32年12月西教寺に招待を受け、了源寺
と事務を兼務。明治33年3月9日、庫裏に 家族とも転籍、明治33年5月31日、住職移転を申しつけ、初代西教
寺住職となった。年齢は36歳であった。
<増光寺>
杉江多作氏(昭和4年死亡)の居住地にあって、梵鐘はなかった。上古の天台宗と伝うが後に仏光寺派に帰す。字樋口正覚寺久左近道場と称したが不幸にも本堂が
火災に罹り庫裏は多作氏の住宅となった。
維新後は樋口正覚寺を離れて独立、口分田浄沢寺を兼務していたが、明治28、9年頃に美濃生まれの大橋了信氏が住職となった。
明治28年5月に病死後、宮司浄休寺の伊藤義賢氏が兼務することになった。
<真教寺>
現在の川崎秀樹氏所有、中野武志氏宅の東隣にあった。創立者や創立年月日は不詳。維新後、東浅井郡旧びわ町難波の養本寺光明令寛氏が在住事務をなしたが、
病死後無住となった。
なお、この寺の梵鐘々堂は願通寺に現存している。
<七条寺>
このように寺院道場は数箇所あったがいずれも維持が困難であった。政府による維持に窮する寺院を合併すべきとの布達をうけ、真教寺と増光寺が合同し、
「七条寺」とあらためた。
西教寺では移転を計画、土地と費用が準備でき、いよいよ実行しようとしていたため、七条寺門徒総代は以下の3つの条件を提示し、合併勧誘した。
1.寺号改称
2.字の中央に移転
3.住職は西教寺住職を迎える
明治43年2月当時、出張中であった西教寺住職はこれを知ると帰寺し、総会を開催、合併に関して同意を得る。明治44年、本山と県庁に申請を行なった。
【福泉寺建立の沿革】
■寺号改称 ※原文のまま
先此の号を改むるに当たり、卑劣を嫌い、他寺と乱聞せざること。読方通俗に渉ること。字形書易いこと。多少拠を有すること。此の件々を守り思惟熟考し、 漸く
字養安藪中に湧き出る泉を拠として此の清水流れて南北両川となり、字民の飲用田養となる。建築地又此の清水の泉に近隣し、流の両川間なるを以て是れ福 泉寺と改る。
■建築地所開き
大正元年10月20日実施。
土砂は、本堂裏の藤ノ木三畝余歩の高畑地を買収、その土砂によって地形を築いた。
大正2年2月17日から26日に竣工。
■俗に“千本づき”
大正2年8月24日、一昼夜にわたり執行した。
まず、築地基礎石の部を掘割して、周囲の企画を定めて、音頭柵を設けて、提灯をつるし、消防夫席を設け、器具を陳列、公衆向けには酒宴席を設け、幕を周囲に
設置、敷き座も準備、生花も飾る。露天の申込もあったのでその準備も。
当日がくると、音頭人にあわせ、規路を回る男女は小棒をにぎり応答する姿は「市」のようであった。
四つの字の総代は、それぞれ竹馬に祝封を釣って来賓した。余興として石田は大石に車をのせて、青松に紅提灯をつり、笛太鼓隊をなして提灯行列、狂言を巧 して
練り込んだ。八条と南小足からは藁縄で大鐘を引いてきて、はやし方も数十人が来会した。今川からは囃し方を引き立てて、30人余りが狂言を舞踏した。
地搗き石つきは、大正2年9月4日から40日にわたり行なわれた。
■通路石橋
大正2年1月25日60円余りで買収。2月3日に掛け終わった。
■献木々曳
大正2年3月4日着手。石部、堀部、八条山から、鉦や太鼓でもって曳き集まった。
■本堂作事
新栄の下川粂太夫氏に委任。副棟梁は芝原与惣弥氏氏と森川熊治郎氏。
■起工式
大正2年5月9日挙行、棟上上は大正2年10月20日。
瓦は県内八幡町の前田某製造、葺人は長浜の郡上末吉氏、石材は長浜の石寿裏石垣側面、半部は山東町大清水から買収。左官は神田の西堀藤治郎氏。
■落成還仏法会
大正3年9月25日に実施。
その後、内陣天井を大正5年11月竣工、外陣天井は大正6年12月竣工、廊下は大正5年夏に竣工。
庫裏は、大正3年9月8日地形工事を始め、10月2日立柱、12月25日に竣工。
■梵鐘併鐘堂
大正4年3月、鳶引で足柄神社から境内に移築。
■鐘堂石垣
大正5年3月工事着工、7月竣工。
■井戸堀
大正3年10月20日、位置を下して掘割り。しばらく水がでなかったので遺憾ではあったがようやく良水が噴出。
■柴小屋
大正4年7月落成。
■境内樹木
玄関前の雄松は元真教寺にあったもの。その他大小の雑木はほとんど献木。
■内陣奉安仏像
阿弥陀如来(木像)…元真教寺に安置。室町時代作。台座は元増光寺本尊のものを転用。
親鸞聖人(絵像)…元西教寺に安置。達如上人の裏書で「享和3年12月、江州坂田郡七条村惣道場常住物」とある。
蓮如上人(絵像)…元増来寺に安置。乗如上人(本願寺19代)の裏書で「天明8年4月6日」とある。
太子、七高僧(絵像)…どちらも元真教寺に安置。乗如上人の明和6年4月6日の裏書がある。
■その他の仏像
阿弥陀如来(木像)…元増光寺本尊として安置。現在庫裏内仏として崇敬。江戸初期作のもの。(同じく阿弥陀如来(木
像)1体は、元西教寺の本尊として安置していたが、合併後、長浜町営火葬場の休息場に譲る。その後川崎町の円敬寺預かり)
惣仏(臨終仏)…二幅ある。一幅は、本願寺釈宣如(本願寺第13代)の裏書で「惣道場常住物釈了道」とある。元増光寺のもの。もう一幅には裏書はなし。西教寺のもの。
六字名号軸二幅…裏書はなし。蓮如上人のご真筆か? 保存状態不良。
十字名号軸一幅…裏書なし。保存状態良。
合併後(大正5年以降)願事下附されたもの…列祖真像、荘厳光院真影、真無量院真影、御絵伝(四幅)
(平成6(1994)年、福泉建立80周年を記念して発行された冊子『-八十周年記念-福泉寺創建の概要』から要約)
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