1月1日(日)
七条町自警団出初式
1月16日(日)
三町合同班長会議 (5時~)
1月23日(日)
書面表決・役員選挙開票
2月6日(日)10時30分
節分祭・初午祭(厄除祈願)
2月11日(金)11時 祈念祭
(おこないさん)
花見のつどいはコロナの為中止です。
5月4日(水)18時~ 春季大祭宵宮
5月5日(木)10時~ 春季大祭本宮 13時~ 御神輿渡行中止
稚児&武者行列は実施
5月6日(日)8時~西町草の根広場掃除中止
6月4日(日)8時~ 川掃除
6月25日(日)緊急通報訓練
7月31日(日)8時~西町草の根広場掃除
町三役、西町役員、事務員で実施
南郷里3世代グランドゴルフ大会 中止
8月7日(日)8時~ 墓道掃除
8月14日(日)8時~平和への祈り
南郷里連合自治会ビーチボール大会 中止
9月9日~10日 町民フエステイバル
9月10日(土)宝さがし 7時~
防災訓練 10月15日
10月7日(土)人権学習会
10月16日(日)8時~ 東町草の根広場掃除
(町3役及び東町役員で実施予定)
南郷里文化祭 10月21日(金)~23日(日)
環境美化運動 自治会単位11月27日(日)
役員等で実施 8時~
友愛活動訪問 11月中をめどに実施
減災かるたとり大会 コロナ禍で中止
12月29日~30日 年末警戒自警団
姉川と長浜の平地
姉川は、横山の北のはし、竜が鼻付近で大きく向きを変えます。大昔の姉川は、現在のように、流れがきまっていませんでした。大雨ごとに流れを変え、運んだ土砂がたまって高くなると、他の低い方に流れたのです。永久寺から大戌亥・下坂中へと続くしっちや南小足から宮司へかけての低い土地に、そのなごりがみられます。長浜のほとんどの土地は、このような姉川に運ばれた上流の土砂が、竜が鼻をかなめにして、おうぎ形にひろがりながら、しだいにつくられていったものです。(中略)
姉川と集落
姉川から分かれたいくすじかの川は、市内を、北東から南西の方へ流れています。
川の付近のやや高い土地には、森や畑があり、また、家がたちならび、集落をつくっています。
これは、わたしたちの祖先が、生活に必要な飲料水や、あらいものなどの水を、豊かな川の流れに求め、その付近で、水はけの
よいやや高い土地に、住みついたためだと考えられます。
また、姉川の水はふく流し、自然に地上にわきでて、生水(しょうず)となります。泉・榎木・加納・南小足・七条などには、
この生水が多くみられます。すみきった生水の付近に、集落をつくっていったものでしょう。
以上昭和34年発行 長浜市教育委員会・長浜市教育会 発行「郷土長浜」より転載
上記右図のように、昭和30~40年代 七条町でも生水はあちこちにありました。また、井戸を掘って地下水を利用しました。冷蔵庫のない時代、夏になると、井戸にはスイカやマクワが浮かんでいました。地下には樋がめぐらされていました。
また、川には小鮎が泳いでいました。もちろん、道路は舗装ではなく、でこぼこ道でした。
時代とともに、最後の湧き水「養安」もいつしか枯れてしまいました。
深い親いどを共同でほり、そこから水をひいた家も多く、現在でも、井戸組が残っています。
人びとは、川にそって住む必要がなくなると、仕事に便利なところや、道に沿ったところなどに、家をたてるようになりました。国友、十里、宮司などはそれです。
以上昭和34年発行 長浜市教育委員会・長浜市教育会 発行「郷土長浜」から引用
当七条町は水・道ともに満たした集落として発展してきました。
七条町は坂田郡のうち古代条里制の七条にあたり、七条3里が現在の
七条町に比定される。
(以上 角川書店発行 角川日本地名辞典 25滋賀 より引用)
条里制は中国の均田制にならった。
条理地割の基礎は1辺を1町とする方格地割
1町は10反、6町(坪)四方は里
ひとつの里は36坪に分かれ1の坪、2の坪、・・7の坪・・36の坪となる。
6町四方は北(東浅井郡境界)から1条、2条、・・と呼ばれ、里は東から西へ1里、2里、・・・と
右図にあるように、七条3里が七条町である。
右図は 坂田郡条理の呼称(高橋美久二『近江の考古と地理』
( 以上 山川恵弘著 「条理と地理」から引用 しました。)
七条町は以前は上野村といわれたが、七条町と名称変更されました。
*条理制は645年大化の改新ごろに条里の決まりが定められ国の大きな力によって土地がしきられたのです。(「郷土長浜」より転載
七条町は古くから能、狂言が演じられており、能舞台はもちろん、衣装も含め町民だけで演者や謡曲、つつみ等の囃子方のすべてのスタッフが揃っていました。
画像は七条での最後の能舞台となりました昭和12年の「竜虎」です。
(七条町まちづくり委員会作成)
毎年五月五日になると、長浜市七条町の鎮守足柄神社では春の例大祭が賑々しく催されます。このお祭りの呼び物には、「センザキョウ」の掛け声とともに若い衆によって担がれる勇壮な神輿の渡御と、子どもたちが鎧をまとって練り歩く武者行列があるのですが、それと共に、御旅所からの渡御を終えた神輿が足柄神社の境内に入る際に、能面をかぶった「尉(ジョウ)」と「姥(ウバ)」の二人が獅子を伴って神輿を鳥居まで出迎えるという印象的なシーンが見られるのも興味深い祭りです。実は七条の地と能面とには、昔からの縁で結ばれた深い関係性があるのです。続きを読む・・クリック
面打ちとしての井関家は、初代の上総介親信から二代次郎左衛門(親政)、三代備中掾(家政もしくは家久)、そして四代河内大掾家重へと受け継がれ、この四代家重の時に江戸へ移り住むのですが、七条に住んだ初代から三代までの井関氏は、特に「近江井関」と呼ばれています。続きを読む・・・・←クリック
写真 明治44年生まれの郷土の大先輩樋口良太郎さんが後世に伝えた写真3枚です。
写真左 八幡神社奉納能 「俊寛」 シテ俊寛「樋口良太郎氏」
写真中 豊国神社奉納能 昭和15年「土蜘蛛」 シテ「樋口良太郎氏」29才
写真右 七条町御旅仮舞台 井関専治郎先生追善能 尼 「樋口良太郎氏」
当時七条町では能の他に狂言も町民で演じていたそうです。
【昭和クラブ跡】
当時の人々にとって随一の娯楽施設であった劇場『昭和クラブ』は、1937(昭和12)
年~1938(昭和13)年にかけて、木造2階建建築として完成、オープンした。南向きであった。観客収容総数200人位で、廻り舞台も備わっていた。芝居だけでなく、トーキー映画もしばしば上映されていたが、戦後まもなく取り壊された。
(長浜市農業文化遺産総合調査より抜粋)
画像は昭和12年5月24日の上棟式 (写真提供・戸田豊氏)
館主 株式会社 昭和倶楽部
施工 戸田安吉 氏
棟梁 萩永茂一 氏
(七条町まちづくり委員会作成)
【田中藤内顕彰碑(田中先生碑)】
江戸末期頃、謡曲の師匠として活躍したと伝えられる田中藤内先生の碑は、氏の死後、門弟らによって建てられたものです。碑文を現代文に直してみると、おおよそ以下のような内容が書かれてあります。
『田中先生は通称藤内といい、諱は正胤、句名は松濤館采という。弘化三年(1846)正月にこの地に生まれた。
若い頃しばらく京都の観世流能楽の大家片 山普三の門に学び、よくその音調はすばらしく、ひとたび聞けばだれでも歎賞した。またその人となりは温厚で、その門弟を愛するさまは、母親が赤子を愛する 如くであった。多くの人々がその徳をしたい、その感化をうけた。また和歌俳諧発句、活花なども上手であった。年八〇才をすぎてもかくしゃくとして健康で
あった。もとから深く仏門に帰依し、晩年におよんで髪をそって堯照と名のった。ここに門弟が相談して碑を建てその厚徳を後世につたえようとするものである』 画像の説明板と田中氏説明文は「七条町まちづくり委員会が作成」
昭和10年ごろ七条町日の出楽団です。
当時長浜では七条町日の出楽団が有名であった。
七条町づくり委員会作成